<プロフィール>
大阪府堺市出身。立命館大学卒業後、機械警備メーカーで営業職を経験。滋賀県高島市の地域おこし協力隊として移住し、地域課題と向き合う中で「人づくり」の大切さに目覚める。2017年から島根大学にて特任助教として地方と都市の還流事業や全国の地域教育魅力化コーディネーター育成にも関与。2022年より海士町へ移住し、コーディネーターとして活動中。現在4年目。
地域おこし協力隊から見えた“教育の空白地帯”

――原さんが「教育」の現場に関わるようになったきっかけを教えてください。
原:もともとは、滋賀県高島市で地域おこし協力隊をしていたときですすね(上記の写真は、滋賀県高島市広報誌より)。
移住・定住促進や集落自治の持続化、市民活動の支援など、いろんな地域課題に取り組んでいました。いろいろ見ていく中で、「これって人を育てなきゃ根本的に解決しないんじゃないか」と思ったんですよ。空き家や林業も大事だけど、結局それを担う“人”がいないと続かない。
――“教育”というより、“人づくり”に興味が向いていったんですね。
原:そうですね。ただ、その中でも高校に注目するようになったのは、小中学校ではふるさと教育など地域との連携が進んでいる一方で、高校だけがぽっかり抜けて見えたから。
ちょうど高島市にも「高校に何かしたい」という思いはあったけど、動き手がいなかった。「これ、誰もやってないじゃん。だったら自分がやってみよう」と思って飛び込みました。
――高校の反応はどうでしたか?
原:最初はもちろん、全然相手にされなかったですよ(笑)。でも、高校の先生方のニーズを丁寧に拾って、それに応えるところから少しずつ信頼を得ていきました。
その中で企画したのが高校生の進路選択やキャリアデザインにつなげる「ワークライフストーリーエキスポ Work Life Story EXSPO」。地元の大人たちに自分の働き方や人生について語ってもらうイベントで、ただの就職説明会じゃなくて、“生き方を語る場”にしたかったんです。高校生がメモを取りながら真剣に話を聞いていて、先生たちが「え、あいつがこんなに反応するの!?」って驚いていましたね。
――今でいう「コーディネーター的な動き」をすでにされていたんですね。
原:まさにそう。肩書きはなくても、学校の外と中をつなぎ、新しい出会いをつくる。そのことで生徒も先生も動き出す。そういう連鎖を信じて動いてました。
“トップランナー”の中で、仕組みをつくる
最先端で挑戦できる環境へ

――地域おこし協力隊の任期を終えた半年後、縁あって島根大学の特任助教として島根県へ移住。そして、海士町へ。なかなか珍しいキャリアの歩み方だと思うのですが、ぜひ、背景を聞かせてください。
原:島根大学でのプロジェクトの区切りが見えていて、次の動きを考えていたところでした。当時、他大学への転職などいろんな選択肢はあったかと思います。そんなときに、(一財)島前ふるさと魅力化財団のリーダーの宮野準也さんから「原さん、海士町どうっすか?」って声をかけられて。
正直、海士町はずっと「トップランナー」として見ていたんですよ。負けたくない気持ちもあって(笑)、どちらかというとそれ以外の地域をサポートしていました。でも、海士町の現場は本気で進化し続けているのが横目で見ていても分かるんですよ。
それと、母からずっと「鶏口となるも牛後となるなかれ」って言われて育ってきたんです。小さな組織でも先頭に立つ方がいい、と。大学はとても大きな組織でそのなかでやる難しさも感じていた。そのとき、隠岐島前高校はちょうど新しい学科をつくる普通科改革改革の準備中で。最先端で挑戦できる環境に自分が入って、さらに次の仕組みをつくっていけるなら面白いなと思って、海士町に行くことに決めました。
――(一財)島前ふるさと魅力化財団では、「コーディネーター」ではなく、総務スタッフで入る想定だったとか?
原:そう。もともと「コーディネーターをやりたい!高校生と何かしたい!」っていうのはあまりなく。「仕組みをつくるのが好き」な人間なんです。でも、結局は高校のコーディネーターとして着任することになりました。
大学では、社会人教育とか大学生との関わりが多かったので、「高校生とどう向き合えばいいんだろう?」って正直ちょっと戸惑いはあったんですよ。でも、はい、杞憂でした(笑)。

チームの中で“自分のポジション”を見つける
――着任当初は、どのような役割だったんでしょうか?
原:最初は、「夢探究」という総合的な探究の授業や、生徒募集のサポートから入りました。当時は僕を含めて4人のコーディネーター体制で、みんなそれぞれ得意分野があるし、何より熱量が高かった。だからこそ、「自分がどこで貢献できるか」を常に意識して動いていました。
僕自身は、大学で授業設計や評価に関わってきた経験があるので、仕組みを整えるところにはある程度自信があって。一方で、たとえば国際系の取り組みは経験が少なかったけれど、そこは強みを持っている仲間がいるので、安心して任せています。
そうやって全体を見渡しながら、「ここ、今ちょっと手薄だな」と思う部分に手を出していく。自然と、そういう“穴を埋める動き”が自分の役割になっていった感じですね。
最初から「これをやります!」と決めて入るというよりは、周りの動きを見ながら、自分のポジションを少しずつつくっていく。その積み重ねの中で、気づけば信頼されるようになっていったのかなと思います。

――現在はリーダー的な立場を担っておられると伺いました。
原:はい。今は新学科の設計・運営や生徒募集に加えて、小中学校や学習センター、寮も含めた教育魅力化事業部全体、10人以上のチームをマネジメントしています。
なんだかんだ“交通整理”みたいな役割が多いですね。コーディネーターがやるべきか、先生に任せるべきか。どこまで委ねて、どこで介入するか。その線引きや、どう指示を出すかを常に意識しています。
ただの調整役じゃなくて、それぞれがちゃんと力を発揮できるように場を整える。そういう意味では、教育という現場の中で、ある種の「仕組みづくり」をしている感覚に近いかもしれません。
――先生方とは、どんな関係性を築いているのでしょうか?
原:職員室の雰囲気でいうと、最近はコーディネーターより若い先生たちも増えてきていて、在籍年数で見ても僕らのほうが長くなってきたんです。だから自然と、“サポートする立場”というよりは、“バディ”として一緒に並走する関係になってきていて。立場は違えど、ある意味対等に議論できる関係ですね。
会議でも、しょっちゅう発言してますよ。「今の結論、本当にそれでいいんだっけ?」みたいな(笑)。たぶん、世界で一番、職員会議で発言してるコーディネーターなんじゃないかなって思ってます。
進化し続ける現場のおもしろさ
――この仕事をしていて、何が一番やりがいを感じますか?
原:挑戦や進化の隠岐島前です。隠岐島前高校って「もう完成されたモデル」みたいに思われがちなんですけど、実際は毎日、悩んで、苦しんで、試してます。
島前の諸先輩方が口にしていた「毎日が挑戦です」って言葉、本当にその通り。アイデアをすぐに試せるし、失敗しても立て直せる環境がある。そういう現場で動けるのは、本当にありがたいことです。
――どんな人が、こうした現場に合っていると思いますか?
原:そうですね、、地域との相性というのはあるかな。ミッションが明確な地域もあれば、そうじゃないところもある。自分は「不明確なほうが合ってる」タイプ。協力隊のときも、サラリーマン時代も、与えられた枠じゃなく、自分で枠をつくる方が楽しかった。
また、スピード感も地域によって違うので、じっくり一歩ずつ進んでいく地域が合っていると感じる人もいると思います。そこは人によって合う、合わないはあると思います。
――今後、さらに取り組んでいきたいことはありますか?
原:長い目線で、魅力化をどう持続可能にしていくかですね。財団の経営もそう。また、小中との連携や、産業界との接点づくりなども個人的にやっていきたいと思っています。
未来をつくる仲間へ
――これからコーディネーターを目指す方に、メッセージをお願いします。
原:一緒に未来をつくっていきましょう。この仕事は、子どもの未来も、地域の未来も変えられます。僕はミーティングの最後に「じゃあ、みんなも、未来をつくっていこうかー!」って言うんですよ。みんな「はーい」って軽く流すけど(笑)
あのままサラリーマンを続けていたら、こういう感覚は得られなかったかもしれない。でも今は、「地域の未来につながる仕事」ができていると感じてます。

(島の教育会議in大阪の様子)
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